心
『心の求めるところ』....<Ⅰ>............................【髓心 : 1 / 20 】
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性善説や性悪説などについては、幾多の賢人と呼ばれる人たちや多くの哲学者によって諸説が披露されております。善であるか悪であるかは諸説にゆずるとして、歴史を振り返って見ますと、人類は、戦いなくしては語ることができない足跡を残してきたことを知ることになります。
現に、わが国でも戦国の時代と呼ばれる以前から争いはつきることなく、近年では第二次世界大戦という悲惨な体験がありました。にもかかわらず、今日では武力をもって国を守るべきか否か、などと国際社会から選択をせまられています。こうした現実をみますと、戦うことが人類の避けて通れない道なのかと苦慮してしまいます。古きは聖徳太子の「和をもって尊し」。今日でも、世界平和はみんなの願いでもあり、わが国の憲法にも戦争放棄の思想がつらぬかれています。しかし、今このときも、世界のどこかで戦争が起こり、罪もない子供の命が無残にも奪われ、家族が引き離され、生活の基盤をなくし、今日の糧さえ滞る有様を知らされます。ごくごく身近なところでも、小さな争いの止むことがありません。

戦いを前提とした空手を標榜する私が、なぜ? と思われるでしょう。それは、私が求める空手道は、「争わない」ことを目的にしているからです。
動物は生きるために、戦うという本能を与えられています。人間は戦うこともできますが、戦わないことを選択することもできます。動物が戦わないときは、本能的に戦うことで身の危険を察知するときです。しかし、人間は、戦うことのむなしさと、他の者へのいたわりや思いやり、分別によって争いをさける叡智をもっています。しかしながら、歴史の上では、戦うことのむさしさも、他の者へのいたわりや思いやりも、苦渋の思いで捨て、戦わざるをえなかったこともあったことでしょう。しかし、これを叡智とすることは、歴史の傲慢であるといえます。勝てば官軍といいますが、理不尽な思いがつのります。

心は何を求めているのでしょう。いや、心に問いかけることこそ意味があり、必要なのではないのでしょうか。

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