心
『心の置き場』』....<Ⅱ>............................【髓心 : 5 / 20 】
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この冒頭に「仕方がない」とか、「しょうがない」などと云って諦めることがあります。と書きましたが、「諦める」とは「明らかにする」という意味であったようです。諦という漢字(中国語)の本来の意味は、つまびらかにする、明らかにする、まこと、さとり、などで、佛教のことばでは、諦めは「明らか」であり、明らかに見極める、ものごとをはっきりさせるという意味があるそうです。「真理を観察して明らかにみる」という意味もあり、また、ものごとを正しく見て、あるがままに受けとること、などとあります。
ですから、簡単に修行をやめてしまうことは、単に投げ出すということだと思います。悩み苦しみ頭の中を堂々巡りし始めたら、諦観し「馬鹿な考え休むに似たり」と頭の中をスッキリと明らかにする。これが「諦める」。諦観すれば、おのずと「心の奥の心」が答えを導き出してくれる。これが修行。心の置き場には、欲望の塊を置きました。続けようと思う心も、うまくなりたい、強くなりたいと思う心も、修行の目的に固執することも欲望にほかなりません。修行とは、その欲望を達する過程を経てこそ意味があります。そしてその欲望こそ「心の置き場」であり、その選び方こそ「仕方」にほかなりません。















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