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よく、「仕方がない」とか、「しょうがない」などと云って諦めることがあります。では、本当に「仕方がなかった」のかと考えてみると、ほとんど結果に対して自らを慰めるためか、もしくは投げやりな気持ちで使っていることが多いのではないでしょうか。物事に結果があるということは、始まりがあったということです。そして始まってから結果に至までに経過があったはずです。この経過をどうして経るかが「仕方」です。物には仕方がある、と云います。もちろん空手道の修行にも、「仕方」があります。
では、段取りやマニュアル、あるいはカリキュラムがあれば、望む結果を生むことができるのでしょうか。かりに、このマニュアルやカリキュラムは先達の師が長い年月をかけて会得したもので、しかも、最先端の科学の検証を得たものだとしましょう。例えば、国が総力をあげ、英知を集めて作成した教科書とカリキュラムによって教育がなされ、全ての国民が同じように成果を得られたでしょうか。
マニュアルやカリキュラムは、指針こそ与えてはくれますが実践するのは、自分自身です。指導者は、適切なアドバイスや、叱咤したり、あるいは激励することはできますが、これを聞き入れ実践するのは自分自身です。いかにわが子であっても、弟子であっても親友であっても、自分以外を変えることができないのが世の定めです。自分自身と云えども、過去の自分を変えることはできないことは言うまでもありません。未来の姿を夢見ることはできるとしても、現実ではありません。唯一、我々に許されているのは、現在の、今この時の自分自身を変えることができる。ということの他に許された能力を持ち合わせておりません。そして、その積み重ねこそが現在の自分自身に他なりません。
その唯一の能力はどこから発せられるか、それは自らの心です。その心の置き場によって、同じ「仕方」でも成果に大きく差がでます。
ここでいう心の置き場とは、こうありたいと思う「想い」であり、「願い」です。
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