心
『心の求めるところ』』....<Ⅰ>............................【髓心 : 2 / 20 】
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人類を取り巻く環境と、人と人が構成する社会がこれからもずっと存続できるよう、常に心に問い続ける必要があるのではないでしょうか。
私が求める空手道は、「争わない」ことを目的にしていると書きましたが、これは特殊なことではありません。もとから、武道とは争わないための叡智であると思えるのです。武という文字が、干戈を交えている中に入って止める、と構成されていることを忘れてはなりませんし、本来の意味とは違っても、道という文字が、首、すなわち頭を使って進むと書くことからも、その本質には先達の願いと進むべき未来が示されていると考えられないでしょうか。

1.修行の目的を忘れないこと。
2.続けようと思うこと。
3.うまくなりたいと思うこと。
4.強くなりたいと思うこと。
5.自己を見つめること。

修行とは常に自分との戦いです。「無心の前の一心」。目標成果を達成するために、心の置かれた所に心があるか、常に自分を見つめ続けることが修行の基本と原理原則です。
また、『老子』第三一章に「兵は不祥之器にして、君子の器に非ず」とあります。 問うも「心」、問われて答えるのも「心」。ここに二つの心が自分自身の中に存在することを自覚します。 善悪ではなく、すべてを生み出す「心」(後述)に、人としての叡智を問いかけ問いつづけること。人類がなぜ、社会を構成しないでは生きられない存在であるかをここで論じるつもりはありません。しかし、人類とこれを取り巻く環境の存続を考えるとき、社会的な動物である人間のとるべき行動に方向性が見出せます。人だけではなくすべてのものに対しての共生が必要だと。
心の求めるところは、道を歩む心に芽生えます。道を歩む心が、常に共生を忘れないようにすることが、修行の要になります。要を見失った空手は、ただの暴力にすぎません。

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