心
『二つの心』』....<Ⅲ>............................【髓心 : 6 / 20 】
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心には、二つの姿があります。一つは、環境・情報・刺激などに敏感に反応する心。今ひとつは、混沌とした内から発せられるエネルギーとしての心。私は前者を「我心」、後者を「髓心」と理解することにしました。これまで、いろいろな呼び方で「心」を表しましたが、二つの心の性質を理解することで、より修行が指し示す目標を見つけやすくなるでしょう。
「髓心」そのものの本質は変わらないものと確信しています。諸行無常の世の中で唯一変わることのないものと思っています。それでも、変わることがあるとすれば、人類が測ることのできないほど、ゆっくりと変わっていくのかもしれません。
ところが、日本空手道の始祖であり松涛館流の創始でもある、船越義珍翁(富名腰義翁)の著による「琉球拳法 唐手」に、

「例へば湯のやうなもので、始終相當の熱度を與へないと、
直ぐに冷えて元の水になつて了ふ。」

と、修行のあり方を表現されていますが、自らの心の移ろいを観察していますと、いかにも、そのエネルギーが消えてしまうかのような感じを受けます。これは、「髓心」から発せられるエネルギーがなくなってしまうのではなく、「我心」が「髓心」とのつながりを見失ってしまった結果によるものであると思っています。「我心」の働きは、生きるために必要な自己防衛であり、物事を創作する心でもあり、夢想・想像・妄想、あるいは傲慢・謙虚、怠惰など、自らの性格にもなります。
「我心」は、その時代の背景を常識とし、これを正しい事として認識します。何を正しいと思えるかがその人の人生を左右します。そこで、表面上の社会に適合することを正しいとするならば、社会的な動物としての人類の役割から逸脱することも十分に考えられると思っています。
「近頃の若者は・・・」。というと、江戸の川柳にもあったとか、随分大昔から言われていると聞きます。
最近では「近頃の大人は・・・・」あるいは「近頃の子供は・・・・」。
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